CYRANO(シラノ)
CYRANO RECORDS代表 / 作曲家 / ギタリスト
1983年生まれ
福岡県北九州市出身・北九州市在住
ABOUT ME
昔から、文章で表現することは苦手。
オマケに口下手なのですが、きちんと自分のことを伝えたくてブログを始めました。
私はどちらかというと、成長は遅い方で、
勉強もできるタイプではありませんでしたが、
コツコツ積み重ねて、少しずつCYRANO RECORDSは発展をしてきました。
ここではそんな私の、音楽と共に生きてきたストーリーをご紹介したいと思います。
慣れないことで多少読みにくい部分もあると思いますが、一つの読み物として楽しんでいただければ幸いです。
2022.9.1 CYRANO
※随時、更新予定
Part 1 準備期
垢抜けしない田舎の少年
自分の主張というものがなく
親の敷いたレールに乗る。
心で違和感を感じていたとしても
無理してその道を行く。
勉強は好きじゃないくせに
勉強の出来る子になろうとする。
なぜか?
そうすることで、教育熱心な親が喜ぶから。
他にも、小学校の先生に
「踏み切りを超えて向こうの街には行くな」
そう言われようものなら、
私は決してそれを超えていかなかった。
それはなぜか?
それは、先生の言うことをきちんと聞くのが、
正しい人間だと思っていたから。
でも、本当は、
当時、男子の中で流行っていた
女の子のスカートめくりに私も参加したかった。
迷惑行為には違いないが、気になる女の子にちょっかいをかける。
それが普通にできる男子生徒を横目で見ながら、
心の中でいいなと思いながらも、自分には勇気がなくて出来なかった。
教育方針により、ファミコンも家にはなかった。
仕方がないから、友達の家で遊ばせてもらうが、
小学校5、6年頃からその時間はなくなっていった。気付いたら私は塾に通っていた。
よい中学、よい高校、よい大学、よい就職先 …
そうやって幸せな人生を送れるようにと、親が良かれと思って示した道に私はまた乗っかった。
まだまだクラスメイトと遊びたい盛りの頃に、私は自分の気持ちに正直に生きる選択をせず、中学受験に合格し親を喜ばせることを目的に生きていた。
そしてそれは現実となり、私は中高一貫の進学校に進学することになる。
自分を変えたくて
そんな垢抜けしない自分を変えたくて、私は応援団に入った。
中高生活では勉強はさっぱりダメだった。とにかく宿題は多いし、でも家に帰ったら遊びたいし、私は次第に授業についていけなくなっていった。
でもこの応援団の経験が、私を少しだけ男っぽくしてくれたかも。
応援団の募集は運動会シーズン限定で行われ、その枠はクラスから5名と決まっていた。
”人に注目されるようなことをやってみたい”
そう思って、ドキドキしながら私は志願した。
勉強でパッとしなかった私にとって、とにかくこれは自分を変えるチャンスだった。
練習はまるで軍隊のようで、先輩後輩の厳しい縦社会にまず大きなショックを受けた。
「声が小さい!腹筋力入れろ!」と怒鳴られながら腹にパンチを食らったり、昼休みに広場で女子生徒がたくさん見ている前で、一人ずつ声を張り上げる練習を毎日させられたりした。
練習の最中、祖父が生前によく言ってた「大きな声でしゃべろ!」という言葉が何度も聞こえてきた。私はその度に歯を食いしばった。
まさか私が応援団をやろうとは夢にも思っていなかったが、中高あわせて私は4度これを経験した。
いずれも練習はハードだったが、どこか楽しく、そして私の中でとても貴重なものとなった。
それもそうだ。
なんと言ってもこれは自分の意志で選択した道なのだから。
ロックギターに目覚めた日
フライングV(ロックギター)との出会いは運命だと思っている。
そうじゃなかったら、私の家にこんなモノ舞い込んできたりはしないよ。
中学2年生の頃、母が親戚からギターを譲り受けたとのことで、クラシックギターとフライングVが我が家にやってきた。私がはじめてロックギターに触れたのはこの時だった。
珍しいものを目の前にして、「何だこれ?」とポロンポロンと弦をはじいてみるが、私の興味はすぐになくなった。
クラシックギターはともかく、フライングVは近寄りがたかった。先端は尖っているし、髪の毛おっ立ててうるさい音を出して、こんな野蛮な音楽は不良がやることだと、私は最初ロックに対して否定的だった。
ついにギターを弾くことはなかったため、その2本のギターはいつの間にか母が捨ててしまい、フライングVは一旦私の人生から姿を消した。
ロックギターに目覚めたのは、高校生の頃だった。
その頃、流行っていたバンドがクラスでも話題になっていて、私も次第にロックを聴くようになっていったが、ロックギターが欲しいと思ったのは、実は漫画の影響だった。
少年ジャンプに連載中だった漫画『BØY』に登場するキャラクターに惹かれたのがきっかけで、
そいつは、ロックが好きになってバンドを組んで、自分の楽器が欲しくなって、バイトしてバイトしてようやく10万貯まってギターを買うというような男で、私はとても惹きつけられた。
”自分の欲しいものがあって、それを自分でバイトして稼いで買うって、なんてかっこいいんだろう”
学校の規則だからということでバイトを禁止されていて、それに素直に従っていた私に比べそいつがカッコよく見えた。ギターが欲しいと思ったのは、このキャラのおかげかもしれない。
”高校生にもなって、バイトをしたことがないってどうなの?”
勉強もできない上に、バイトもやってなくて、お小遣いはちゃんともらってるお坊ちゃん。そんな自分がカッコ悪いし情けないとも思った。
そう思うといてもたってもいられなくなり、それまで貯めてきた小遣いを全部使って、少年ジャンプの裏側にあるギターの入門セットを購入した。
高校生にとっては高額な買い物であったが、多少無理してでもそれを手に入れたかったのは、多分カッコいいものを手にすることで、カッコいい奴に近づきたいという衝動からの行動だったのだろう。
進路選択
自分は何者なのか?
今まで生きてきた中で、最も好きだったことは何か?
この先どのように生きていきたいのか?
将来の進路を決めるとき、私もこのように大いに悩んだが、心の中に浮かんでくるのはいつも「音楽」だけだった。
特に作曲できる人に尊敬と憧れを抱いており、やがて『オレも作曲家になりたい』と思うほどに、ミュージシャンへの夢は膨らんだ。
”私が音楽で夢を与えてもらったように、今度は私が音楽で夢を与えることをしてみたい”
そうと決まれば、自分が音楽の道に進むべき理由を過去から探し、その正当性を証明するかのように都合よくこじつけていった。
オレは音楽の教育をきちんと受けたことはないが、でもきっと才能はある。だってファミコンの音楽をちゃんと口ずさめていたから。
口ずさめていたということはつまり、頭の中でなっている音を正確にコピー(耳コピ)できるっていうことだから、コピーした音を正確にアウトプット(作曲)することもできるハズさ。
しかも、それ(ファミコン音楽の耳コピ)は幼少期の頃から取り組んでいたんだから、オレも音楽の教育を幼少期から受けていたようなものだ。
それに何よりも、音楽が好きであることが、すでに才能に恵まれていると思っていい。
と、こんなふうに。
しかし音楽を志したはいいものの、初めからスムーズにはいかないことの連続だった。
作曲ができるわけでもなく、ギターも上手いわけでもなく、バンドメンバーがいるわけでもなく…
あるのは情熱だけで、私はミュージシャンになるために必要なものは何一つ持っていなかった。
”まあいいさ、情熱があるだけまだマシだ!”
気丈に振舞ってはいたものの、どうやったらミュージシャンになれるのか、私には明確な道筋がわからなかった。
そこで私は、音楽の専門学校に行くことが一番の近道だと考え、父に相談を持ちかけた。
しかし、どこの家庭でもよくあるように私も父に猛反対を食らう。
「音楽の専門学校に行かせるために、オレは金を払うつもりはない」
「音楽でメシを食っていけるようになる奴は、この世に一握りだ」
「頼むから普通の大学に行ってくれ。それが嫌なら今すぐ働け!」
ミュージシャンになるために私が思い描いていたサクセスストーリーは、初っ端から見事に砕け散った。
私「今から働けって言われても、オレ何にも出来ねーし」
父「だったら、大学に行って学生しながら音楽を目指せばいいじゃないか」
このように父と私の議論は続き、ついに私は説得に折れた。そして、大学進学という親の提案にまた乗ってしまった。
とはいえ、確かにこれも自分で選択した道には違いはないが、私は心から納得していなかったため、気持ちの整理に多くの時間がかかってしまった。
「遠回りのように思えるが、今は大学に合格することが音楽の道につながっている」
1年の浪人期間を経て、私は東京の大学に進学することになるが、今思えば、あの頃はそう自分に言い聞かせることで自分を保っていたような気がする。
Part 2 実践期
バイトしてマイギターを買う
晴れて大学生となった私は、入学してすぐにバンドサークルに入部した。
受験勉強中、ずっとやりたかった音楽活動がついにできる時が来た!
夢の第一歩を踏み出した私の心は、ワクワクしていた。
そして、私はずっとやりたかったバイトもようやく経験することができた。
高校生の頃、自分で稼いだお金でマイギターを買いたいと思っていたけど、それができずにいたので、大学でそれを一度経験してみたいと思っていた。それを経験しないままでは、ギターがうまくならないような気がしていたからだ。
ファミリーレストランでの深夜バイト。そこで稼いだ3〜4ヶ月分の給料を注ぎ込んで、ギターとMTR(レコーディング機材)を買い揃えた。私にとっては人生ではじめて大きな買い物をした瞬間で、めちゃくちゃ嬉しかった。
もしあの時に戻れるなら、つまんない毎日を送るくらいなら「バイトとかしてみたらどう?」と自分に助言するかもしれない。
「危ないから踏切をこえて向こうの街に入ってはいけませんよ!」
と、先生の言うことだけを聞いていてもダメなんだと、今の私ならそう思う。
欲しいものを手にするために、時に踏切を超えていかないといけないんだったら、ぜひ越えていける自分でありたい。
1年かけて練習した1曲
マイケルシェンカーの名曲「Captain Nemo」
1年間かけて練習して、大学を卒業する時のサークルのコンサートで演奏した思い入れの1曲。
マイケルに教えてもらったのは、ギターの楽しさだけでなく、自分らしくあろうとすることの大切さを学んだ。
達成できなかった目標
大学4年間で10曲入りのアルバムを作ろうと目標を立てていたが、それを達成できずに私は卒業式を迎えた。
サークルの仲間は皆就職して、新しい地で新しい人生を歩き始めていく中、私1人就職も決まらず孤独だった。おまけにデモテープの1つさえまともになかった私は、ミュージシャンには程遠い位置にいた。
さて、これからどうしよう。
実家にも帰らず、私は東京にとどまった。とりあえず仕事をしないといけない。もう社会人になったんだから。でも、何を仕事にすればいいのかわからない。
私はとりあえず、バイトで日々を食いつないだ。頭の中は、それでもまだ音楽を続けていたいという思いだけがあった。
自分のアルバムを作ることができなかったことがどうしても心残りで、近所の楽器屋さんに足を運んでは、どうにかして自分の音楽を形にすることができないか、来る日も来る日もそればかり考えていた。
そんな時、パソコンで作曲する方法(DTM)があることを知ったんだ。
当時、私はまともなパソコンを持っていなかったから、DTMをするにはまとまった資金が必要になるであろうことは容易に想像がついた。
どうしよう、お金をためてDTMに投資してみようか?
でもMTRもそうだったけど、結局使い方がわからなくて、断念しちゃっただろ?
作曲においての成功体験がなかった私は、そんな感じに弱気で、同じような思考回路を繰り返し悩んでいた。
でも、仮に誰かにDTMのこと、機材の使い方などを徹底的に習うことができれば、オレもまともに作曲できるようになるんじゃないかなあ?
かろうじて前向きな発想ができたことはラッキーだった。
とにかく今の私に出来る方法はないか、前向きに考えるクセをつけようと思った。今の状況を変えるためにそれが今の私のできるベストな選択と思い、意識的に日々を過ごした。すると、その思いが叶ったのか、街を歩いていてふと目に入ってきたのはなんと音楽教室の看板で、そこにDTM作曲コースという記載があった。
家からこんなに近い場所にDTMを習える場所があるなんて、これは飛び込んでみるべきなのか?
今度は受講料のことで悩み出す私。
受講料ってきっと高いんだろうなあ…、でも、受けてみたいなあ…
バイトで食いつないでいた生活だったので、どれくらいお金がかかるのか心配だったけど、このまま行動しなかったら、私の状況は変わらないということは感じていた。
それではまたつまんない人生をダラダラと過ごすことになってしまう!それは絶対にイヤだ!
まだ何一つ成し遂げてないままで終わってたまるか!
私の中で、この心の声は大きな叫び声をあげていて、もはや見て見ぬふりをすることはできなかった。
「よしっ、やってみるか!」
私はこの本心の叫びに背中押されて電話をかけた。
「今度こそ、チャンスをモノにしてみせる!」
貧しい生活だったけど、行動に出たあとの私の心は希望に満ち溢れていた。
人生は選択の連続で、時々誰かに背中を押してもらいたいと思うことがある。答えは既に自分の中にあるのに、自信がないと自分では決められず尻込みしてしまう。しかし、ふと本心の叫びが背中を押してくれることがあるのも事実で、もしかしてそれが神とやらなのかもしれない。何にせよ、そのおかげで今の私があることに感謝している。
世界が広がった瞬間
音楽って、どうやって作られているんだろう?
高校生の時にはまるでさっぱりわからかった疑問。
まずわからなかったのが、レコーディングの仕組み。
私は、音楽業界に入らなけばミュージシャンはアルバムをつくることは出来ない、ってずっと思っていました。レコーディング機材はスタジオにしかなくて、一般人が買えるようなものではないと。
でもさ、、、
メジャーデビューする前のインディーズアーティストも、音楽業界に売り込むためのデモテープを自分たちで作っているじゃん、あれは一体何で作ってんだろう?
って私は、ずっとこれが疑問だったんです。
当時、私の身の回りにある機材で録音ができるものっていったら、カセットテープレコーダーしか思いつかなかったから、「あ、そっかー、きっとカセットテープレコーダーでせーので演奏してダビングしているんだよ」って思っていたんです。
でも、せーので録音したら、ノイズが入っちゃうよね?
・・・
音楽雑誌のミュージシャンのインタビュー記事などに「オーバーダビング」とか「このフレーズは何通りもテイクがあって、別トラックに収録していた」とか、たまたまレコーディングに関する情報を仕入れたとしても、
オーバーダビングで音を重ねるって、そしたら前に(カセットテープに)録ったフレーズが消えちゃうじゃん!
ってさらに謎は深まり、疑問は膨らむばかりでした(苦笑)。
そんな過去もありました。
そんな私だったが、DTMでの作曲法を習い、まともな1曲を作り上げることができ「オレはもうどんな曲でも作れる!」という自信ができた。
それはまるで無限に世界が広がったような感覚だった。
苦悩と作曲の日々
バンドをしたかったが、うまくいかず。
1人でも音楽を続けるために、DTM中心に音楽制作を続ける。
やがて1人で音楽を作るロックというものが虚しくなり、オーケストラに方向転換。
東京を離れ、地元北九州へ帰り、人生をやり直すことを決意。
結婚とレーベルの設立
2015年12月20日。この日は、私は結婚式をとりおこないました。
そんな記念すべき日に、同時に私は個人レーベル「CYRANO RECORDS」を正式に設立することになったのです。そのきっかけを与えてくれたのが妻でした。
「結婚式で自作曲を披露しようよ」という彼女の一言に背中を押されて、はじめて大勢の前で自分の曲を披露しました。
ご来場いただいた方々に、引き出物としてCDを配るなどとは想像しませんでしたが、この日こそが、自作曲を発信するファーストステップとなったのです。
妻と連日深夜まで梱包作業をしたのが懐かしい思い出です。
CDのジャケットの裁断も、試行錯誤。裁断機を購入して裁断していったのですが、これも大変。ミシン目の切れ目をつけるためにそういう道具(ミシン目カッター)とかも買ってきたりして…。
でもこれがCYRANO RECORDSのCD制作の原型となりました。
そしてこのCDでは、もうひとつ自分の挑戦してみたかったことも実現しました。
それは、CDジャケットを自分でデザインするということ。
今までアルバムを作っても、真っ白なCD-Rだけの寂しい仕上がりだったため、いつか自分のデザインした絵を入れて、本格的にアルバムを作ってみたいと思ったのです。
そんな、自分のやりたかったことを一気に集約したアルバムが、1st Album「Joan of Arc」です。
人との出会いと成長
実は、私たちの結婚指輪はオリジナルメイドのものです。これも妻からのリクエストであり、私たちは自分たちで指輪をデザインできるという地元のジュエリーショップに訪れました。
式のあと、そこの店長さんに、「Joan of Arc」を持って挨拶をしに行ったところ、「うちのオリジナルの音楽を作ってもらえませんか?」と声をかけていただいたのです。
その店長の期待に応えようとして制作をしたものが、2nd Album「ROMANCE Rachel & Jennifer」になります。
前作から大きくパワーアップした点は、シナリオを加えたところです。
前作はジャンヌダルクという中心人物を定めて大河ドラマのように制作してきましたが、今回は自分でシナリオを描いて、それに沿って音楽を作ってみたのが特徴です。
ちょうどその頃、シナリオ教室というものが地元のカルチャーセンターで開催されていて、私はそこに参加して、一本のシナリオを書き上げます。それがRachelというお話でした。
結婚指輪を制作するお店ということで、Rachelという架空の人物を描き、彼女が結婚に至るまでのストーリーを自分なりに考えて作ってみたものです。
この頃から、デザイン、シナリオ、音楽という3つの柱が、CYRANOの音楽にスタイルとして築かれていきました。そのスタイルは、私のオーケストラ作品の中で大作となった、5th Album「M」、6th Album「Q」まで受け継がれることになります。
娘の誕生
2020年5月。コロナの中、娘が誕生した。
私は無償の愛を注げる存在に初めて出会えた。自分が親になってみて、はじめて親が自分に注いでくれていた愛情の深さというものを少し理解できて、私はまた少し変わった。
親は子供に何を残してあげられるでしょうか?
財産?
もちろん、それもあるに越したことはないですね。
でも、私はそれ以上に、愛情や思い出を残してあげたいと思うのです。
親がどれほどわが子を想いながら生きてきたか。
たとえば私の父と私について
私の父は、随筆集として形あるものを残してくれました。そこには、父独特の物事の考え方や、人生を生きていくうえでの教訓などが書かれていました。
しかし、それは直接的に子である私に向けられて作られたものではありません。ですが私は、その随筆集を手にしていると、不思議と私のために残してくれたような感覚を覚えます。父がどんな想いで日々を生き、どんな想いでこれをつづったんだろうと、あれこれ想像します。
父なりに一生懸命になって私を育ててくれていたんだなあということを、わずかにその本から感じることができたとき、私は言葉にならない喜びを感じます。まるで、今も私のことをずっと応援してくれているかのように思えて嬉しくなるのです。
今度は、私が娘のために何かを残してやりたい。
最近、何だかCYRANO RECORDSはそのために存在するのかなと思えてきました。
フライングV再び
ある時、部屋の掃除をしてたら、棚の中から懐かしいものが出てきました。それは、当時、東京で過ごしていたときに録りためていたデモテープ。
曲を再生してみると、そのときに出会った友人知人と過ごした日々が、懐かしく甦ってきました。
「ユニークな音楽をたくさん作って、みんなに楽しんで聴いてもらいたい」
そんなことを思いながら、
彼らをイメージして曲を作って、誕生日の時にプレゼントしてたっけ?
デモテープの状態でしたが、自分らしい正直なロックサウンドのまま、それはMP3プレイヤーの中に眠っていました。私が再びこれを聴く日まで静かに。
このデモテープは、私に大切なことを思い出させてくれました。
”自分を信じて、自分らしく表現し続けることって、とても素晴らしいことだなあ”
オーケストラを作るミュージシャンになろうと思っていたのに、再び蘇ってきたロックへの情熱とギターへの愛情。もう10年近くギターから離れていたというのにね。
”オレのルーツは、やっぱりロックなんだろうなあ”
私はこのとき確信しました。
一度はオーケストラに方向を変えて、本心を見て見ぬふりをしたけれど、ロックは決して自分の中から消えてなくなるものではなかったということを。
それに気づいた私は、改めてロックと正面から向き合い、正式にロックアルバムをリリースしようと再びフライングVを手にしたのです。
それにしても、ロックって何だろう?
なぜ私はこうもロックに心を掴まれているんだろう?
そうだね、、、あえて言葉にするなら、、、
”自分らしく、自由に生きることが許される”
とでも言うのでしょうか?
もちろん自己責任も伴うけど、おそらく私はそこに希望と魅力を感じているのでしょう。
私は、どんな時も自分を信じていきていきたい。
もちろん、うまくいかないこともありますし、簡単ではありませんが、
自分を信じることができなければ、
自分が選択する一つ一つを「ああ、これで本当にいいんだろうか」と、疑って生きることになってしまいます。
そんな人生ほど最悪なものはない。
それでは、”今” を生きられなくなってしまうから。
どんな生き方でも、どんな道を辿っても、
それが信じた道ならば、最終的には自分のことを認めてあげたいものですね。
それが幸せにつながるんじゃないかなあと、私は思うのです。
生まれたばかりの娘にも、ぜひそうあって欲しい。
そう思いながら、7th Album「ROCK ME」は誕生しました。
Part 3 発展期
進化する夢
8th Album「ROCK ME2」は
CYRANO RECORDSは道の途中
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。
ここではほんの一部ですが、CYRANOがたどってきた道を紹介させていただきました。
CYRANO RECORDSは、まさにCYRANOの人生の記録でもあり、そしてこの先どんなストーリーが刻まれていくのか、私自身にもわかりません。
どんな音楽が作られるのか。
どんな仲間と出会い、どんな楽しい時間や空間を共有しているのか。
こういったことを考えるだけでとてもワクワクします!
たくさんの人と出会い、私自身も成長させられ、作風も変化するかもしれません。でも、基本的には自分らしさを大事にしながら、道の途中で出会う人たちと価値観を共有しながら、自由に、ロックに生きていくんだろうなあと思っています。